90年代とは何物だったのか -音楽で読み解いてみるよ・その2

これは私信ではありません。メモがきです。


今年も残すところ今日一日ですね。
本当は今年一年を振り返るべき日なのに、やっぱり90年代のことばっかり考えている。いい加減に自分のことをアホかとしみじみ思います。
でもこんなにあの時代のことを考えているのは、自分にとって90年代とは、他のどんな時代にも変えられない、特別な意味と響きとがあるからです。その理由は話し始めると長いし、そもそもうまく説明できるかどうか分からないので割愛する。


それよりもこの前、当時の音楽雑誌を読んでいて、ある一つの仮説の発見をしたので忘れないうちに記しておきます。それは”95年の転換期に何が起きたのか”もっと正確に言うなら、”95年の転換期には『何』が転換したのか”ということです。

それは一言で言うなら『表現とリアルの転換』である

今の時点での私見はこうです。
95年1月、阪神・淡路大震災が起き、3月にはオウム地下鉄サリン事件がおき、94年にすでに予兆のあった『そろそろこの90年代初頭特有の閉塞から何かがはじけだすのではないか』という空気は、まさに現実の世界で結実した。そしてそれらの事件を機に、リアルの世界が表現や空想の世界を超えていってしまった
−95年の音楽雑誌を見ると、表現者たちは危機を感じている、と表現者自身が公言しているところに何度も出くわした。それは現実のほうが、表現よりも圧倒的なエネルギーを持って目の前にそびえたつようになったからです。
表現とは多かれ少なかれ、表現者自身と表現者が感じているその時代の空気を映し出しているものであると思いますが、95年までは”リアル”と”表現”とは比翼連理・両輪の車のようにお互いをひっぱりあっていたよい相互関係にあったと思うのです。
それが95年を境に”表現”が”リアル”に追随するようになった。若干情緒的な言い回しに変えると、『表現が、リアルの圧倒的な重力に引っ張られるようになった』。それは『表現の風速がリアルの重力に勝てなくなった』=『相対的な表現の速度低下』を意味している。
カート・コヴェインが叩きつけた表現は、グランジという形でリアルと表現を限りなく近いものに引き寄せ、その境をあいまいにした。そしてついにリアルは、数多くの表現の及ばない先どりをはじめたのではないでしょうか。
以上仮説。



…今回はここまーでー。これをたたき台にさらに考察を深めるには、96年以降の表現と表現者と時代を見ていかなければならない作業になるのでまた今度。96年以降に出てきたミッシェルやナンバーガールは、グランジよりもはるかに小さいけどやっぱりリアルの要請で出てきたもののような気もするしな。うーむ。それから個人的に当時のUGシーンも追っかけてみたい気がするので、年明けたら当時のUGシーンをブレーンの友人らに確認してみるつもり。


ぼそぼそと長くかいてしまったー!年の瀬なのにね。うう。
ではまた来年。皆さま、良いお年をお迎えください。
来年も、にっこりと笑って物事を迎えられますように! ×××pan拝